錦野旦さんは、1970年代前半にとても人気のあった歌手です。
もう40年前になりますが、スターと言われても良いくらいの人気でしたね。
運動神経も抜群で、これも人気番組だった「芸能人大運動会」では常にライバルの野村真樹(現:野村将希)と競い合っていたのを覚えています。
デビューは華やかに鮮烈に、いつしかテレビから消えて、いつしか復活する波乱万丈な人生を歩んできています。
そんなスター錦野旦がなぜスターと呼ばれるようになったのかを探って行くので楽しみに読んで下さいね。
お好きなところからご覧ください。
錦野旦 プロフィール
出生名 金 明植
本名 錦野明
別名 にしきのあきら
生誕 1948年12月14日(69歳)
血液型 A型
出身地 大分県大分市
学歴 大分県立芸術短期大学附属別府緑ヶ丘高等学校卒業
プロフィールを見て何か違和感を感じましたでしょうか?
そうです。「出生名が金 明植」となってます。
1961年に韓国籍から家族全員で日本に帰化していて、それを当時はアイドルとして人気絶頂にあった1972年に週刊誌で公表しています。
ちなみに、家族は父・母・弟・妹の5人家族
スター錦野旦が運動神経や歌がなぜ上手かわかった!
錦野旦さんは、「芸能人大運動会」などでも活躍していたのですが、当時は運動神経の良いアイドルとしてとてもかっこいいイメージでした。
なぜこんなに運動神経が良いのかということがわからなかったのですが、その理由が判明しました。
それは、
高校時代の部活が体操だったから。
かなり、体操に打ち込んでいて、国体やオリンピック選手を目指していたほどの熱の入れようだったそうです。
しかし、諦めてしまうことに・・・
その理由が、錦野旦さんの身長は177cmなのですが、体格が大きく体操に向いていないということで、諦めてしまってます。
今、活躍している体操選手は確かに大柄な選手はいないのですが、やはり回転など素早くできるということでは小柄な体格の方が有利なのかもしれませんね。
そんな諦めた過去がありますが、体操という競技に打ち込んだことが自信につながっていて、芸能界で活躍するようになったということです。
体操は諦めてしまいましたが、ここで、人性に大きなチャンスをもたらす選択をされています。
ブラスバンド部に転部しトランペットを選択。
このトランペットが錦野旦をスターに押し上げるキッカケになります。
スター錦野旦が鮮烈デビュー
錦野旦さんの父はダンス教師をしていて多くの知り合いがいたのですが、その中で1970年台に人気があったナイトクラブを息子に紹介します。
※ナイトクラブとは、夜に営業する会員制のクラブ
スターと呼ばれる前の錦野旦さんは、1967年に高校を卒業した後、父の紹介された大分県別府市のナイトクラブ『ナポリ』で音楽活動を始めます。
高校で体操を諦めて、ブラスバンド部で始めたトランペットの演奏をしています。
そこで、芸能界に入るきっかけとなる人物と出会います。
それが、鹿児島市天文館の『キャバレー・エンパイア』のオーナーです。
その縁で、キャバレー・エンパイア』の専属となって、その3ヶ月後すぐに浜口庫之助さんという方を紹介されて上京することになりました。
そんなトントン拍子で1970年CBSソニーから歌手デビューを果たしました。
その時のキャッチフレーズが「ソニー演歌の騎士(ナイト)」
1970年5月には、にしきのあきらの名前で「もう恋なのか」をリリースして、念願のNHK紅白歌合戦にも初出場。
1971年3月【にしきのあきら】空に太陽がある限りが大ヒットしました。
50代以上の方は、この頃からにしきのあきらの名前を見たことがあると思います。
錦野旦の人生が一転する出来事が・・・
アイドルとしてデビューから順調に歩んできた錦野旦さんですが、1970年台の後半に人生を一転する事件がありました。
それは、少しずつ彼の心を闇にしていってしまうのです。
1976年 連続出場の紅白歌合戦に落選。
1977年10月15日 大麻取締法違反で逮捕。
ポルノ女優から大麻を譲り受けた疑い
同じ年 マネージャーが勝手ににしきの名義で多額の借金を作り失踪。
とんでもなく負のスパイラルに溶け込んで言ってしまうのでした。
何がにしきのの心に住み着いてしまったのでしょうか。
そして、ついにアイドルから容姿が一変するのです。
スター錦野旦の髪型を一新!!
1970年にデビューしたスターですが、ある時期に大変身を果たします。
その変身とは髪型!
デビューからスターの髪型は、7:3の長髪スタイル
これが、スポーツ刈りになってしまいました。
なぜ、短髪にしたのかというと、
1979年の映画「戦国自衛隊」で陸上自衛官 菊池弘次役で出演をしたのですが、この時に自衛官らしくということで、スポーツ刈りにしています。
にしきのあきらのトレードマークの7:3分けが短髪へ変身した時でした。
その後、長髪へ戻ることはなく、今でも短髪です。
スター錦野旦の復活!!
しかし、錦野旦さんは復活します。
その復活はアイドルではなく、スターとして・・・
闇の間は長く、十数年
1990年代になると、少しずつテレビ出演が始まります。
まずは、ドラマ「雪の蛍」(東海テレビ)に俳優として出演。
その後、アニメ『ちびまる子ちゃん』や『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で意外な注目を集める。
そして、完全復活のキッカケとなったのが、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』
この番組中にアナウンサーの福澤朗から裏スターとしてもてあそばれるようになって一気にスターになってます。
ちなみに、このときの本当のスターは神田正輝さんでしたね。
これが、錦野旦さんがスターと呼ばれるようになった理由です。
ここから「錦野旦」は「スター錦野」と呼ばれるようになりました。
1999年はスター錦野50歳でしたが、なんと『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のマラソンランナーに抜擢され、当時の史上最高齢ランナーとして見事に完走しました。
この復活劇の裏には恐妻の存在があったようです。
恐妻については、別の機会にご紹介します。
本も出されているので読まれるとおもしろいですよ。
錦野旦 ツキを呼ぶスター恐妻のススメ!【電子書籍】[ 錦野 旦 ] |
まとめ
今回は、錦野旦さんの人生を振り返りました。
スター錦野が誕生する過程を紹介しましたが、一度暗闇を経験した方が復活すると、その後は何があっても、来るうしい時でも楽しく人生を生きられるということを実証してくれているようです。
人生は必ずやり直せる!!
そんな気持ちにさせてくれる錦野さんの人生でした。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。
LEAVE A REPLY